聖書には人間の死後の世界、天国がどのような場所なのかをはっきり描写している箇所はありません。しかし、ヨハネの黙示録では象徴的な意味ではありながらも、具体的な表現で天国の様子が描かれています。18-21節では、さまざまな宝石と貴金属によって作られた新しい都、天国の世界が登場します。この描写は、天国の素晴らしさを表現するためであると同時に、地上の人間にとって価値あるものも、創造主なる神さまにとっては建築材料に等しい価値である、ということなのでしょうか。天国とは、地上の富の問題で悩まされる人間の欲深さから解放された世界なのでしょう。この天国全体を光で照らしているのは太陽ではなく、小羊になぞらえられているイエスさまです。このイエスさまから出る光によって、天国全体が輝いています。もし、イエスさまがおられなくなったら、天国に光は失われてしまいます。死を打ち破り生きる、新しい、永遠の命の源であるイエスさま抜きに、天国の描写をしても空しいものとなるのでしょう。救いを求め、地上の人生を終えた全ての人の魂は、このイエスさまによって招かれ、天国の住まいに生きるものとされていると、聖書は教えています。輝かしい、宝石と貴金属による世界は、イエスさまを信じ、招かれた人々自身の姿のなぞらえなのかも知れません。天国に招かれた全ての人は、人生を通して今なお、神さまの栄光、イエス様の光を受けて輝いているのです。
アーカイブ
2024年10月27日
新約聖書の舞台の一つ、ガリラヤ湖は約166平方キロメートルの面積があり、琵琶湖の約4分の1の大きさとなります。この湖がある地方の秋は、夏の暑さが和らぎ、山間部との温度差が生じやすくなるため、短時間の嵐が起きやすくなるそうです。イエス様の弟子たちの中には、元ガリラヤ湖の漁師もいたので、そのあたりの事情は良く知っていたはずです。彼らは嵐が来ても短時間だから、しのげるだろうと思っていたのでしょうか。しかし、思いのほか嵐は強く、また船を出したのがすでに暗くなっていた時間だったため、弟子たちは目的地になかなか着かず、それどころか自分のいる場所もよく分からず、嵐の中で困惑し、疲れていたかも知れません。このような嵐の中の人々は、人生の苦悩に陥り困惑する人々の姿を象徴しているのかも知れません。イエス様は嵐の中を、湖の上を歩くという人間では不可能な方法で弟子たちに近づいてきました。弟子たちがこのイエス様を迎え入れた時、嵐は終わり、船は目的地に着きました。自分の力に自信を失い、努力が虚しく終わることを感じている人生の嵐の只中にイエス様は来て下さり、人生の目的を新しくして下さり、再びこぎ出す力をあたえて下さるのだと、聖書は教えているようです。
2024年10月20日
近頃はお掃除ロボットなるものが、床の掃除を自動的にしてくれるようになりました。まだまだ課題は大きいとはいえ、床が広い部屋を定期的に掃除してくれるロボットの存在は、家事の助けになっているようです。心が沈んでいると、掃除する意欲が無くなることがあるそうです。そこで掃除をしない部屋は、心が沈んでいることの象徴とも見なされます。それでも、頑張って掃除することで、逆に沈んでいた心が元気を取り戻すこともあるようです。すると片付いて清掃されている部屋にいることは、体のための衛生環境が整うだけでは無く、心も穏やかになれるのかも知れません。イエス様は人間の心、あるいは人生を家になぞらえ、悪い思い、悪い習慣などの罪深さを人の内に住む悪霊になぞらえているようです。しっかり掃除をしてホコリやチリを家から出すように、心清められて悪い思いや習慣を止めた人の心は、清掃済みの部屋のようです。しかし、空き家状態のままだと、かつて出したはずの悪霊は、より多様な仲間を引き連れて戻ってきてしまい、心と人生は以前よりも散らかって汚れた状態になってしまう、とイエス様は言っておられるようです。コリントの信徒第一6章19節では、人の心と人生全体が「聖霊が宿る神殿」であると言われています。聖霊という表現は神さまのご人格やご意思という意味でも用いられますが、人を清め続けて下さる神さまの愛の恵みという意味でも用いられます。お掃除ロボットのように、人の気付かぬ時も働き、心と人生を清めて下さる神さまの聖霊が心に住んで下さいますように、心の扉を開いてお迎えしたいものです。
2024年10月13日
ルカによる福音書8章41-56節では、二人の「娘」が登場します。一人はヤイロという人物の娘で42節では「12歳くらい」とされています。もう一人が、ヤイロの娘を癒しにいく途中で出会った女性で、43節では「12年このかた出血が止まらず」と紹介されています。この出血は女性特有の病気の一種であったと考えられているようです。文字通りにとれば、この女性は12年間病気で苦しんでいたので成人しており、ある程度の年齢であったことが想像されます。当時、出血の続く病気は「ケガレ」と見なされ、病的感染のみならず、罪深さが感染しないようにと社会から隔離されることがありました。彼女は病気だけでは無く孤独感に苦しんでいたかも知れません。この女性が癒された時、イエス様は「娘よ」と呼びかけています。父なる神さまがこの女性を決して見捨ててはおらず、愛情深い親は、いくつになっても子を慈しむ心を失わないように、神さまはこの女性をご自分の娘と思い慈しんでおられるのだということが、人々の前で宣言されました。神さまは体だけではなく、心と社会性をも癒して下さる愛の神です。
2024年10月6日
「食欲の秋」とか、「天高く馬肥ゆる秋」いう言葉があります。夏の暑さで食欲がなくなっていた人が、秋の涼しさの中で元気を取り戻し、よく食べることが出来るようになる様子を表した言葉なのだそうです。ですから、暴食を勧める言葉ではないのでしょう。小食になり、力を失っていた人を励ますための言葉であり、寒い冬に向けて力を蓄えようという備えの言葉なのかも知れません。食を断って祈りに専念することを断食と言います。ルカ福音書ではイエス様が断食した理由が明確に記されていませんが、空腹の苦しみを自ら体験し、その中でも祈りを献げ続けるお姿は、自らを満たそうとするのではなく、他者の欠けを満たそうとされる十字架に至る隣人愛の生き方の象徴のようでもあります。悪魔はイエス様に対して空腹の苦しみから逃れるために、神さまの奇跡の力を、自分の為に使えば良いと誘惑します。イエス様は食欲そのものを否定しません。しかし、自分を愛するように隣人を愛することが、神さまを信じて愛する人の生き方であるとイエス様は教えておられます。美味しいものを食べる時には、独り占めしたりせず、空腹の人々が満たされるよう、ささやかであっても分け与える心を思い起こしたいものです。
2024年9月29日
人間の健康上、睡眠時間をしっかりととることは大事です。詩編127編2節にあるように、日々の生活のことで心の平安を失った結果、より多くのお金を得ようとして睡眠時間を少なくするような生き方は、心にとっても不健康であり、神さまによって必要なものが満たされると信じる人は、眠ることに罪悪感を持つことなく、神さまが一人一人に備えておられる適切な時間、安らかに眠ることが出来るのだと聖書は教えています。しかし、睡眠時間は、多ければ多いほど良いというものではありません。多すぎればむしろ健康を損なうことにもなるようです。ローマの信徒への手紙13章11節では、魂にも適切な目覚めの時があると教えています。この目覚めもまた、適切な睡眠時間の後に自ずと現れるものです。イエス様の十字架の救いを信じ、父なる神さまを信頼して生きるという新しい命は、その恵みに気がつくための適切な期間を経て、目覚めの時を迎えます。救いの恵みは、平安の後に自ずと現れ、すっきりと目が覚めるような、神さまが一人一人に備えておられる時です。
2024年9月22日
秋分の日は、夏と秋の境目の日であり、日照時間と夜の時間が等しくなる日とされています。しかし、ぴったり同じになるわけではありません。ほぼ同じになるのです。太陽と地球の動きからすれば、ぴったりになるはずなのですが、空気による光の屈折によって、実際はちょっと昼の時間が長くなるようなのです。というわけで、天文学的には同じであるけれども、物理学的には少しばかりずれるのです。聖書では、イエス様を信じて救われた人は、神さま側の理屈では完全に救われているのだけれども、人間側の現実では、なお罪を犯して悔い改めを続けている、完全な救いを目指して生きているのだと教えています。しかし、そのように自分にはまだ至らないところがあると自覚し、ひたむきに神さまを求めて生きる人生こそ、完成の中心点へと向かう、ほぼ完成された、実質完成された救いの只中に生きる人なのではないでしょうか。不完全であることは嘆くべきことではなく、むしろ完全を目指し、近づくことが出来る力の源泉でもあり、なによりそのような人のことをイエス様は、すでに天国に住まいを備えていて下さるのだと聖書は励ましているようです。
2024年9月15日
寒暖の差が大きくなる秋は、体力、免疫力が弱ることがあります。外出した後は手洗い、うがいを心がけたいものです。小さな子どものいる家庭では、子どもに手洗いの習慣を教えるために、始めは親と一緒に手洗いをするでしょう。保育園、幼稚園、小学校でも、衛生習慣を身につけ、自分だけではなく自分の周りの人たちをも、病ませてしまわないようにと願う、心の優しさを身につけます。日本では昔から、悪事を止めて更生しようとすることを、「足を洗う」などと言いますが、新約聖書のヤコブの手紙4章8節では、罪から人が清められ、悪から義へと回心することを「手を清める」と表現しています。この表現は当時の人々が、食事の前や、礼拝の前などに手を洗い、体を清潔にすることを「清める」と表現していたことに由来します。手洗いは、罪を清められ、悪事を止めることの象徴です。同時にこの箇所では、「心を清めなさい」とも言われています。悪の行いを止めるだけではなく、悪意、ねたみ、憎しみなど、悪の原因となっている自らの欲望を心から取り去らないと、また悪事がぶり返してしまうものです。祈りと礼拝という、心を洗い、心をうがいする習慣を身につけましょう。
2024年9月8日
列王記の時代、預言者達は偶像礼拝に対して強く反対しました。理由の一つは、当時のパレスチナ地方の土着宗教は、人間を生け贄として偶像神に献げたり、神殿を売春所としており、倫理観に邪悪な振る舞いを行っていたからです。預言者エリヤは邪悪なバアル宗教に対して祈りと真の神さまの力によって勝利したはずでした。ところが、世の中は変わりませんでした。むしろエリヤは厄介者として権力者から命を狙われ、人里離れた荒れ野へ逃げ出すことになります。神さまは挫折感に苦しみ、死すら望む言葉を発するエリヤを生かし、彼の心を励まします。悩みつつも立ち上がろうとするエリヤは、ある晩、不思議な体験をします。11-12節の表現は、もしかすると文字通り大きな災害が起きたことを意味しているのかも知れません。しかしエリヤは、人々が神の力を感じるはずの巨大な自然の力の中に、真の神さまの存在を感じませんでした。エリヤは全ての災いが終わった後に聞こえた静かな細い声に、自らを用いて人を生かそうとする神さまの存在を感じて立ち上がります。そしてエリヤは全体からすればわずかな、小さな人々を助け、祈るために、活き活きと生きる信仰者として生まれ変わったのでした。
2024年9月1日
童話「王さまの耳はロバの耳」のように、人の心は「秘密だよ」と言われるとなぜだか他の人に言いたくなることがあるようです。マルコによる福音書の特徴の一つに、イエス様がやたらとご自身のなさった奇跡を言い広めないようにと、秘密にしたがって、という様子が記されています。何故秘密にしようとしたのか、その理由は書いてないので、読み手は色々な解釈をしています。イエス様の働きのおもな目的は魂の救いだったので、病気や障害を癒すという奇跡ばかりが期待されるのは目的にそぐわないので、言い伝えることを禁じられたのでしょうか。あるいは奇跡は目の当たりにしないと信じることが困難なので、イエス様の奇跡を言い伝えた人がそのことによって嘘つきよばわりされたり迫害されないように、秘密にするべきだと教えられたのでしょうか。しかしイエス様が秘密と言っても、人々はイエス様の素晴らしさを言い広めました。我慢できなかったのです。開かれたのは話せない人の口だけではなく、喜びの心だったのかも知れません。