ルカによる福音書2章では、イエス様がベツレヘムで生まれることになった背景に、当時ユダヤ王国を支配していたローマ帝国の政治的事情があったと記しています。「住民登録」は今で言う国勢調査であり、税金と兵役のための調査でした。イエス様の父親となったヨセフの本籍地がベツレヘムだったからでしょうか、住まいのあるナザレから長い旅をすることになります。すでに臨月であった妻マリアと共に旅をしたのは、法律的に彼女も登録する必要があったからなのか、それともナザレに一人留まるのは居心地が悪かったのでしょうか、いずれにせよマリアにとっては苦難の旅だったでしょう。ところが到着したベツレヘムには、彼らがとまれる場所がありませんでした。妊婦に対して、ずいぶんと人情のない扱いをしているように感じられます。旧約聖書の掟によれば、流血はケガレと見なされていましたので、出産に伴う出血によって宿屋の商売に差し支えがあることを嫌がって、宿泊拒否をされたのかも知れません。人間の世界の、優しさに欠ける罪深さの只中に、イエス様はお生まれになられました。しかしそこから、世の罪を清め、新しい命を与えようとされる神さまの愛そのものである、イエス様の救いの出来事が始まりました。神さまの救いの愛は、人間の想像を超えて進み、世の闇の中に輝き出でる光です。
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2024年12月15日
アドベント三本目のロウソクは、喜びを象徴する灯火です。羊飼いたちを象徴する灯火と言われることもあります。イエス様が生まれたベツレヘムは、昔から羊飼いの村として知られていました。新約聖書の舞台であるユダヤ王国にとって、古代の英雄であるダビデも、ベツレヘム村の羊飼い出身でした。イエス様がこのベツレヘム村で生まれたことには、英雄ダビデを重ねあわせる意味もありました。しかし神さまが天使たちを遣わしてイエス様のところに招いたのは、戦士達ではなく羊飼いたちでした。新約聖書の時代の羊飼い達は、罪深く、無学で、貧しい人々の代表的存在でした。彼らは都市生活者たちから離れ、孤独感の中で羊たちの世話をしなければなりませんでした。しかし神さまは社会構造にあらがうすべもない、羊のような存在を導く羊飼いの救い主としてイエス様をおつかわし下さいました。イエス様のお誕生を祝うクリスマスの喜びは、あらゆる弱さや罪深さに悩み、あるいは悩むことすら出来ない人々に与えられているのです。
2024年12月8日
詩編119編24節で「定め」と訳されているヘブライ語「エドュート」は、「証人/証言」あるいは「法律」などと言う意味があります。特に旧約聖書では神さまと人間との「契約」という意味でも用いられています。神さまの契約というのは、人間の側は神さまを信頼して生きるよう努め、神さまの側は人間を救い、幸いへと導いて下さるという約束のことです。この契約が人間にとって幸いなのは、人間の側はこの約束をしばしば忘れたり、破ったりするにも関わらず、神さまの側は決して裏切ることなく実現しようとし続けておられるということです。この神さまの側の変わらざる誠実と愛があればこそ、人間が罪を犯し、道を踏み外しても、再び神さまに立ち返り、悔い改めることが備えられています。この神さまの契約は新約聖書において、イエス様の十字架の出来事によって引き継がれ、新しくされました。誰でもイエス様を信じ、救われる人は、神さまの契約の中に入れられているのです。
2024年12月1日
アドベント第一週、一本目のロウソクは「希望」を象徴する灯火です。新約聖書では、この世界に来られた神のひとり子、救い主であるイエス様のことを希望の象徴として繰り返し記しています。ローマ5:5の「希望」は神さまを信じる人が抱く、さまざまな内容の希望であると同時に、イエスさまに象徴されている、人の人生全体を包括し、日々新しい命へと変えて下さる救いの希望を意味しています。苦しみや悩みは、自ら求めるものではありません。叶うことならば、避けたいし、早く取り去られることを望むものでしょう。しかし、苦難を忍耐し、苦難の只中にあっても喜び、怒りや憎しみに支配されず、平和を愛を願い続けることが出来るのは、忍耐の時が未来において必ず終わり、良き報いの時が備えられているという希望を抱いているからです。それどころか、希望があればこそ、苦難は忍耐と練達の経験を与え、人の心を成長させる糧となるのだと聖書は言っています。イエス様は冷たい石の心を光輝く活き活きとした心へと変える希望の力です。
2024年11月24日
畑に種を蒔かれた種は、その種の全てが健やかに育つわけではありません。途中でダメになることもあれば、こぼれ種が豊かな実を結ぶこともあります。種には、自ら成長する命の力が備えられていて、蒔いた人の意図を超えて生きていきます。イエス様は神の国というのは、その実現を願い、働いた第一の者の意図を超えて成長するものであると教えておられます。この箇所での「神の国」という言葉は、死後の理想的世界というよりも、神さまが人と共にいて下さるという点において理想的な社会という意味です。罪や弱さのある、人間の善意による活動には、常に限界があります。努力の全てが、必ずしも良い結果となるわけではありません。しかし、畑全体としては豊かな実りを得る、収穫の時を迎えることが出来るように、神の国もまた人間の拙さにも関わらず成長し、豊かな実を結ぶものだと、イエス様は教えておられます。豊かな収穫の時が来ると信じて、神さまの愛と救いの恵みを伝える神の国の種まきをしましょう。
2024年11月17日
秋はサツマイモの季節です。この辺りではあまり見かけませんが、昔は石焼きイモの販売車があちこちにいたものです。その代わりに近頃ではスーパーで温かい焼き芋を見かけるようになりました。芋には食物繊維が豊富だから、食べるとお通じが良くなるそうですね。快食快便は健康の秘訣です。しかし、もらしたり、トレイではないところで好き勝手糞尿をまき散らしたら迷惑ですし、そのままにしておいたら伝染病の原因にもなります。イエス様は「人の心から出るものが人を汚す(マルコ7:15など)」と言われました。様々な悪意、ねたみ、敵意などが人の心に湧き出て、それを言葉にして口に出すのは、相手を傷つけるだけではなく、あたかも汚物をまきちらすかのように、自分自身を罪深さでますます汚すことにもなると言うことです。ガラテヤ書5:24では、イエス様を信じて罪清められた人は、罪深い思いを十字架につけてしまったと表現されています。これは、イエス様を信じるようになれば絶対に悪いことを考えないというのではなく、汚物のような思いが心に湧いた時には、きちんとトイレでウンチをするように適切に処理をする、ということでしょう。イエス様が自分の罪深さを清めるために十字架についてくださったことを思い起こす時、自分のうちからもれそうな悪い思いを、神さまに対して祈りの中で告白し、きれいさっぱり洗い流していただくことが出来ます。十字架は心のトイレです。
2024年11月10日
イエス様は「ほうとう息子のたとえ」を用いて、罪を悔い改めて神の下に立ち返る人間の姿と、悔い改める前から罪を赦し、受け入れようと待ち続けている神さまの愛を示しておられます。「ほうとう息子のたとえ」は、主人公であるところの「ほうとう息子」が悔い改めて、父の家に戻ってきた後で、父の元で真面目に働き続けていたであろう兄息子の視点が語られています。兄息子は悔い改めて罪赦された弟は大歓迎されて喜ばれているのに、真面目に生きて、大きな罪を犯したわけでもない自分が喜ばれないのは不公平だと怒ります。愛情深い父親は兄息子のところに行って、彼をなだめます。弟の回心を喜ばない兄息子の心の狭さをとがめたりはしません。しかし、もしかすると当たり前すぎて忘れてしまっているかも知れないことを指摘します。兄息子は父といつも共にいる愛の関係があり、また、もはや自分の与えられた分を使い果たした弟息子とは違って、兄息子には真面目に働き続けたことで蓄えられた財産がありました。たとえ話は、兄がなだめられて終わりますが、その後の物語は聞き手が想像します。自分は兄か、弟か、そして今どのように生きていくのか、物語の続きは聞き手の人生の中で語られていくのです。
2024年11月3日
聖書には人間の死後の世界、天国がどのような場所なのかをはっきり描写している箇所はありません。しかし、ヨハネの黙示録では象徴的な意味ではありながらも、具体的な表現で天国の様子が描かれています。18-21節では、さまざまな宝石と貴金属によって作られた新しい都、天国の世界が登場します。この描写は、天国の素晴らしさを表現するためであると同時に、地上の人間にとって価値あるものも、創造主なる神さまにとっては建築材料に等しい価値である、ということなのでしょうか。天国とは、地上の富の問題で悩まされる人間の欲深さから解放された世界なのでしょう。この天国全体を光で照らしているのは太陽ではなく、小羊になぞらえられているイエスさまです。このイエスさまから出る光によって、天国全体が輝いています。もし、イエスさまがおられなくなったら、天国に光は失われてしまいます。死を打ち破り生きる、新しい、永遠の命の源であるイエスさま抜きに、天国の描写をしても空しいものとなるのでしょう。救いを求め、地上の人生を終えた全ての人の魂は、このイエスさまによって招かれ、天国の住まいに生きるものとされていると、聖書は教えています。輝かしい、宝石と貴金属による世界は、イエスさまを信じ、招かれた人々自身の姿のなぞらえなのかも知れません。天国に招かれた全ての人は、人生を通して今なお、神さまの栄光、イエス様の光を受けて輝いているのです。
2024年10月27日
新約聖書の舞台の一つ、ガリラヤ湖は約166平方キロメートルの面積があり、琵琶湖の約4分の1の大きさとなります。この湖がある地方の秋は、夏の暑さが和らぎ、山間部との温度差が生じやすくなるため、短時間の嵐が起きやすくなるそうです。イエス様の弟子たちの中には、元ガリラヤ湖の漁師もいたので、そのあたりの事情は良く知っていたはずです。彼らは嵐が来ても短時間だから、しのげるだろうと思っていたのでしょうか。しかし、思いのほか嵐は強く、また船を出したのがすでに暗くなっていた時間だったため、弟子たちは目的地になかなか着かず、それどころか自分のいる場所もよく分からず、嵐の中で困惑し、疲れていたかも知れません。このような嵐の中の人々は、人生の苦悩に陥り困惑する人々の姿を象徴しているのかも知れません。イエス様は嵐の中を、湖の上を歩くという人間では不可能な方法で弟子たちに近づいてきました。弟子たちがこのイエス様を迎え入れた時、嵐は終わり、船は目的地に着きました。自分の力に自信を失い、努力が虚しく終わることを感じている人生の嵐の只中にイエス様は来て下さり、人生の目的を新しくして下さり、再びこぎ出す力をあたえて下さるのだと、聖書は教えているようです。
2024年10月20日
近頃はお掃除ロボットなるものが、床の掃除を自動的にしてくれるようになりました。まだまだ課題は大きいとはいえ、床が広い部屋を定期的に掃除してくれるロボットの存在は、家事の助けになっているようです。心が沈んでいると、掃除する意欲が無くなることがあるそうです。そこで掃除をしない部屋は、心が沈んでいることの象徴とも見なされます。それでも、頑張って掃除することで、逆に沈んでいた心が元気を取り戻すこともあるようです。すると片付いて清掃されている部屋にいることは、体のための衛生環境が整うだけでは無く、心も穏やかになれるのかも知れません。イエス様は人間の心、あるいは人生を家になぞらえ、悪い思い、悪い習慣などの罪深さを人の内に住む悪霊になぞらえているようです。しっかり掃除をしてホコリやチリを家から出すように、心清められて悪い思いや習慣を止めた人の心は、清掃済みの部屋のようです。しかし、空き家状態のままだと、かつて出したはずの悪霊は、より多様な仲間を引き連れて戻ってきてしまい、心と人生は以前よりも散らかって汚れた状態になってしまう、とイエス様は言っておられるようです。コリントの信徒第一6章19節では、人の心と人生全体が「聖霊が宿る神殿」であると言われています。聖霊という表現は神さまのご人格やご意思という意味でも用いられますが、人を清め続けて下さる神さまの愛の恵みという意味でも用いられます。お掃除ロボットのように、人の気付かぬ時も働き、心と人生を清めて下さる神さまの聖霊が心に住んで下さいますように、心の扉を開いてお迎えしたいものです。