まじめに仕事に向き合える方ほど、社会に貢献することに真剣です。そして、誰にも上手く行くことがあれば、簡単な仕事でつまずく時があります。しかし、責任感が強く、社会貢献を仕事にする方ほど、 仕事につまずいた時に自分を責めてしまいます。誰にでも起きることです。(コミュニケーショントレーナー協会HPより)イエス様の弟子たちは、3年間イエス様と共に神さまのご用のために働き、自信もついていたのでしょう。しかし、イエス様が十字架で死なれることになると動揺し、裏切りました。そして自信を喪失したのです。イエス様は人の弱さをご存じでした。しかし人の強さも信じておられます。必ず回復することが出来るから、その時は他の人たちを力づけてあげなさい、と新たな働きを与えておられます。神さまは自信喪失した人をよみがえらせ、同じ苦しみを持つ人々をも復活させる働きへと導かれる方です。
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2024年3月17日
春になると様々な花が咲きます。鮮やかな草花の色で賑わう様子は、命の力を感じる光景です。しかし、力強く生きる草花も季節が過ぎれば枯れてしまいます。旧約聖書のイザヤ書40章6-8節は、草花の姿を、人の人生になぞらえています。ペトロの手紙第一1章24-25節では、その箇所を引用しつつ、神さまの言葉は朽ちることのない、永遠に咲く花のような存在であると言っているようです。ペトロの手紙は、この朽ちることのない永遠の花、神さまの言葉は、イエス様を通して示され、教えられている救いの恵み、新しい命の恵みであるのだと言っています。イエス様は十字架で死なれた後復活されましたが、その後に天に戻られてしまいました。しかし、イエス様のお言葉は弟子たちを通して現在に至るまで、人の心を癒し、慰め、支える力があります。人の死を超えて、なお生きる神の言葉、イエス様の救いの恵みは、人の心に永遠に咲き続ける花です。
2024年3月10日
共感力とは、他者の考えや意見にその通りだと感じたり、喜怒哀楽といった感情に寄り添うことができる力のことであり、他者と信頼関係を築いたり、良好なコミュニケーションをとるうえで非常に重要な力です(グロービス経営大学院HPより)。ビジネスの世界だけではなく、日常生活でも共感力は大事なものです。しかし、現実には共感出来ないこと、共感してもらえないこともあるでしょう。無関心な他人に解ってもらえないのはともかく、友人や恋人、家族に理解されないことは、つらいことかも知れません。イエス様は争いがあっても、暴力を用いない平和を求めておられましたが、弟子たちはいざというときには、敵を殺傷するもやむなしと考えていたようです。イエス様の「それでよい」という言葉は、弟子の無理解に対する諦めの表現です。しかし同時に、いつか解ってくれると信頼して、期待して待つ忍耐の愛が示されているようです。
2024年3月3日
3月は引っ越しの季節です。自分の荷物をまとめる時、必要なものと不要なものを改めて仕分ける機会にもなるでしょう。「断捨離(だんしゃり)」という言葉は、やましたひでこさんが著書「新・片付け術」の副題としてから、広く日本中に知られるようになりました。この言葉はもともとやましたさんが親しんでいたヨーガの思想から来ているそうです。「離(り)」というのは、モノへの執着から離れるという、心の在りようを変えるという意味なのだそうです。モノを片付けるという実践も大事ですが、物欲、所有欲、独占欲から解放されることの重要性については、諸宗教の教えでも共通しています。ペトロの手紙第一2章11節では、人生を旅になぞらえています。旅や引っ越しに余計なものを持っていけばそれだけ移動が遅く、大変になるものです。所有欲を完全になくす必要はなくても、本当に自分の人生に必要なものは何かを考えることは大切なことです。十字架の恵みにより罪深い欲望から自由になる時、人生の旅は軽やかに楽しくなるでしょう。
2024年2月25日
聖書の舞台であるパレスチナ地方は、乾季と雨季という二つの季節があります。乾季はまったく雨が降らないので、雨雲が登場するのは晩秋から初春にかけての雨期になります。霧が出るのは、ある程度気温が暖かになった初春です。聖書では闇は人の心の罪深さや悩み、深い悲しみの状態の象徴的表現としても用いられますが、詩編18章10-12節では、生き物に命の力を与える、水をもたらす存在として用いられています。詩編18編は古代イスラエルの英雄ダビデが、彼の命を脅かす敵の手から逃れ、あるいは撃退した時に歌った歌とされています。彼は快適な都市生活、名誉ある立場から追いやられ、荒野の洞窟で長いこと身を隠し、敵国に亡命することになりました。突然の災難は未来への希望を見失わせたかも知れません。しかしこの災難によって彼は優れた活躍へと導かれて行きます。神さまは苦難の闇を、人に新しい命を与えるための、春の雨雲や霧として用いて下さる方です。
2024年2月18日
イエス様のたとえ話では、しばしば、なくしたものを見つける、という表現で救いの恵みが語られています。ルカ福音書15章1-7節では群れからはぐれた羊、8-10節では、家の中でなくした銀貨、11-32節では所在不明となった放蕩息子のたとえ話があります。失われた、という表現は本来持っていたものだった、あるべき場所からいなくなった、ということが前提となっています。神さまの恵みというのは、突如与えられたように感じられても、それぞれの人生の中に、心の内にすでに備えられているものなのだ、とイエス様は教えておられるようです。新約聖書の時代、徴税人(ちょうぜいにん)は不当な手数料を取って豊かになった人もいたので、人々から嫌われていました。しかしザアカイの問題は徴税人であることよりも、隣人から愛され、愛する人間関係が失われていたことかも知れません。この関係は、イエス様がザアカイに愛を示し、8節でザアカイ自らが貧しい人へ自分自身を献げたいという言葉によって回復しました。イエス様は人の心の内に備えられている愛を見いだし、明らかにして下さる方です。
2024年2月11日
本日は、大阪神愛教会、創立130周年記念礼拝となりました。人間の寿命を超える年齢を重ねるほどに、この教会が年を重ね、そして今もなお成長し続けていることを、教会の主である神さまに感謝申し上げます。 十三という場所に会堂を持つこの教会にとって、13の倍数である130周年を迎えたことは、とても印象深いことです。聖書では13という数字そのものに、特に強い意味はありませんが、世の中ではなんとなく13という数字は不吉だからと敬遠する人がいるそうです。しかし13という数字は、聖書で象徴的に使われる数字7と6が合わさった数字でもあります。7は神さまが世界をお作りになられた時の数字であり、神さまの完全な恵みを象徴する数字です。6はそれに満たない数字で不完全さの象徴とみなされることがあります。しかし教会は、不完全な人間が、完全な神さまの恵みによって喜びと希望が与えられる場所です。十三にある130周年のこの教会は、神さまの恵み豊かな教会としてこれからも成長し続けるのです。
2024年2月4日
新約聖書の時代の宣教者たちは、世界中のまだイエス様の福音を聞いたことが無い人々のところへ行きました。使徒言行録に記されているパウロの宣教旅行はパレスチナ地方から、スペイン、イタリア半島、ギリシア、マケドニア、現在のトルコやシリア、クレタ島など、極めて長い距離を移動しています。熱心な宣教活動のために、しばしば信仰・思想の異なる人々から迫害され、牢に捕らえられました。長い船旅、内陸の旅では、盗賊に出くわしたり、嵐で転覆しそうになったりと、度々命の危機がありました。しかしパウロは「あなたがたのために苦しむことを喜びと」していると言っています。この喜びの理由は、パウロの活動によってイエス様への信仰を持つに至ったエパフラスが、コロサイ出身の宣教師となり、まだ教会が組織されていなかった自分の故郷であるコロサイを始め、周辺の街々に教会を作る働きをしていた、ということだったのでしょう。実が豊かに実るから、畑を耕す労苦は喜びなのです。
2024年1月28日
冬も盛りになると、時期の内に売ってしまいたいのか、衣類の割引販売が始まります。あえて寒くなるまで我慢して、安くなったときに新しい衣類を買いそろえる人もおられるでしょうか。エフェソの信徒への手紙4章24節には、新しい服を着るように、新しい人を着る必要がある、という表現があります。「新しい」と訳されたギリシア語「カイノス」は、瞬間的な時間感覚における新しさという意味があります。時節に適う新しい服を着るように、イエス様を信じるという人生の時に相応しい人格、品性を身につけることが大事だ、と解釈することもできるでしょうか。この新しさは物質とは異なり、時間経過によって劣化しない、瞬間の連続における新しさでもあります。古い自分の罪深さに気がついたとき、新しくなり続けることができる、悔い改めの恵みの新しさです。
2024年1月21日
西暦1世紀ごろ、新約聖書の時代に地中海世界を支配したローマ帝国の地図によれば、パレスチナ(ユダヤ属州)の地域名として、中央部が「サマリア」と記載されています。北部のガリラヤから南部のユダヤ、その中心部のエルサレムへと移動する場合は、大きく迂回しない限りは、サマリアを通ることになります。ですから11節では、あえてサマリアを通ったことが強調されているようです。サマリア人はユダヤと異民族との混血の子孫とされています。サマリア人が都合良く自分たちをユダヤ人の一部と見なす一方、時に自らを異民族と見なして難を逃れようとしたことが、南部ユダヤ人側が不信感を抱く原因だったとも考えられています。サマリア人はさまざまな点で境界線上に生きる人間の姿の象徴なのかも知れません。15節では、人間がどのような境界線を引こうと、神様は人に境界線を引かず、神の恵みを喜ぶ心は、何者にも備えられていることを示しているようです。