新約聖書の四つの福音書の中で、マルコによる福音書は最も短い書となっています。特徴の一つとして「すぐに」という表現が多用されています。読み手には、いつかという未来のことではなく、今すぐに救いの出来事が起こり、イエス様を信じる信仰へと招かれているという現在性が強調されているようです。物語の始まりとなる1章15節では、イエス様の一番始めの発言として「時が満ちた」という表現が紹介されています。この表現も、「今すぐに」というマルコ福音書の特徴が現れた表現です。「時が満ちた」という表現は、準備が完了した時に用いる表現です。イエス様がこの言葉を用いられたのは、イエス様の先輩に当たるバプテスマのヨハネが権力者によって捕らえられたという迫害の出来事の後でした。しかし迫害を恐れて、時期が悪いと考えるのではなく、むしろ悲惨な世の中である今こそ、イエス様の救いの出来事が起きるに相応しい、と語るマルコ福音書の始まりは、困難な状況の中にいる人々に対して、どんな状況の中でも、今すぐに救いをもたらし、神の愛に招いて下さるイエス様がおられることを力強く伝え、励ましているようです。
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2024年6月2日
コリントの信徒への手紙第一13章では、イエス様を信じる人にとって最も重要で、欠かせない心の有り様は、信仰と希望と愛の3つであり、特にその中では愛が最も重要であると教えています。この愛はギリシア語では「アガ-ペー」という単語で、性愛や友愛とは異なる愛として区別されています。新約聖書では神様が人間に向ける愛を「アガペー」と表現しますが、親が幼子に見返りを求めず与える愛になぞらえられることもあります。人間はお互い様の精神で、助け合うことが大事です。しかし、お互い様の精神は、相手から何らかの見返りが有ることを前提とした愛です。すでに人間は神様から見返りを求めない十字架の愛を受けており、十字架の愛を知っている人は、自らもその愛を隣人に示そうとすることが出来ると、聖書は教えています。キリスト者の集うキリスト教会は、このアガペーの愛を知った人々が互いに愛を示し、まだ知らない人々を招く場所として整えられ、成長していくのです。
2024年5月19日
新約聖書の時代、信仰熱心な人は週に2回以上断食していたようです(ルカ18:12)。この場合の断食とは祈りの一種であって、健康のために行うダイエットとは違います。信仰熱心な人たちにとって、たびたび断食をするということは、信仰熱心さの象徴であり、賞賛に値する行為とみなされていたようです。しかしイエス様は誰かの賞賛を得るために祈ったり、善行を積むのではなく、人が見ていても見ていなくても、賞賛されてもされなくても、どんなときでも祈り、善行を積む人が、神さまを信じて生きる人だと教えておられます。自分が祈る時や善行を積んでいることを誰かに見せびらかして褒めてもらおうとせず、日頃と変わらぬ生活をして、むしろ人に知られないくらいが良いということを、「顔を洗い、頭に油をつける」という日常の身だしなみの表現を用いて教えておられます。誰かと、あるいは何かと比べるのではなく、自分自身の人生の中で出来る祈りと行いを、神さまにお献げしましょう。
2024年5月12日
5月の連休は、多くの人にとって楽しい時間だったでしょうか。しかし、育児中のお母さんたちにとっては、保育園や各種学校がお休みだったので、子ども達のお世話でかえって疲れた、ということもあるかも知れません。母の日が全てのお母さんたちにとって、心穏やかに、癒される日となりますよう、お祈りいたします。 幼い子どもを育てている親にとって、子どものわがままは、時に悩まされることがあるかも知れません。しかし幼子のわがままは、成長に伴う脳の発達と社会経験によって、だんだんと克服されるものです。一方、表には出なくても人間の心には自己中心主義の罪深さが潜んでおり、思いがけないときに出てしまった大人のわがままが、誰かを傷つけたり、人間関係に疲れてしまう原因になったりします。聖書は全ての人が、自己中心主義の罪から離れ、活き活きと生きることが出来る新しい人生へと招いています。聖書では、人の罪は体を洗うように、赦しの愛によって洗い流され、幼子が成長するように、大人もまた心が成長し続ける、新しい人生へと変えられると教えています。全ての人を子どもと思い、育てて下さる神さまは、子育てと、あらゆる人間関係に悩めるお母さんにとっても、親となり心を育み、成長させ、新しい人生を与えて下さる愛の方です。
2024年5月5日
「一粒万倍」というのは、手元にあるわずかなもので始めたことが何倍にもふくらむ、という意味の言葉です。お米が一粒の種から豊かに実る様子に、人間の経済活動や、善行に大きな利益が得られる、という理想を重ね合わせた表現のようです。聖書の舞台となる地中海世界はお米では無く麦の文化ですが、ルカ福音書8章8節でイエス様も「一粒万倍」について教えておられます。よく耕し、手入れされている畑に蒔かれた種は、成長して豊かに実ります。しかし土地は始めから耕されているわけではありません。誰かが土を柔らかくして、根っこを抜いて、大きな石や、茨などの雑草をかたづける必要があります。またもし畑の手入れを止めてしまえば、だんだんとその土地は硬くなっていき、木が生えて、畑ではない土地になるでしょう。柔らかく神さまの言葉を受け止め、日々神さまによって罪清められると信じる人は、その人を通して神さまの赦しの愛と救いの恵みが伝わっていき、その人だけではなく周りの人々をも、互いに隣人を愛する愛によって豊かな実りある人生へと導いていくでしょう。「大声で」人と訳されたギリシア語「フォーネオー」は、「招く/呼び出す」という意味でも使われます。心の距離が遠く、受け入れられない心があろうとも、そこに柔らかく受け止め、豊かに実を結ぶ人がいると期待して、イエス様は救いの種を蒔き、神さまによって新しくされる尽きぬ命の恵み人生へと、全ての人を招いておられるのです。
2024年4月28日
創世記11章に記されている「バベルの塔」の出来事では、世界中の人々が一つの場所に集まって共に生きることが出来た状態についての物語です。16世紀オランダの画家、ピーター・ブリューゲルの描いた1563年版の「バベルの塔」では、崩壊したバベルの塔の左手前に、武装兵に護衛されたニムロド王の前で、ひれ伏すしもべたちの姿が描かれています。「天まで届く塔を建てよ」という無茶な命令を実行しようとした人々をとがめようとする、理不尽な王の姿は、社会の身分制度や立場の強弱によって、人々の協力関係が崩壊していく様子を象徴しているのかも知れません。バベルの塔の出来事では、言語が同じで、同じ場所に住んでいても、人々が互いに失望し離れていきます。新約聖書の時代は、人々は様々な言葉を話しながらも、広い地域に生きる時代でした。コリントという町は大きな貿易都市であり、様々な人々がいたでしょう。しかし、イエス様を信じる信仰を通して、立場や身分の違いにこだわらず、一人一人の弱さを互いに助け合う信仰共同体であり地域共同体としてのキリスト教会が生み出され成長していきました。神さまの愛と互いを愛する隣人愛に満ちる塔として、地上のキリスト教会が生み出され続け、成長することが出来ますように。
2024年4月21日
イエス様が復活された時、イエス様を信じて慕っていた弟子たちはすぐにそのことを信じることが出来ませんでした。ルカによる福音書では、エルサレムがイエス様の活動の中心地として強調されており、エルサレムで起きたイエス様の十字架の出来事から、世界中に救いの恵みが広がっていったことが示されています。ルカによる福音書24章13節以下に記されている、エルサレムから離れてエマオという街へと向かう二人の弟子の出来事は、神様の救いの恵みから離れていく人の心を象徴しているのかも知れません。17節「暗い顔」と訳されたギリシア語「スコスローポス」は「悲しみ、憂鬱」という意味があります。心を暗くしている思いは、神様の恵みの言葉を語り伝える存在を通して光が当てられ、変えられていきます。そして彼らの心に希望の火が燃えあがった時、復活と新しい命の恵みに生きておられるイエス様が、今自分たちと共にいて下さったことを信じて、元気を取り戻しました。そして、未だに暗い思いの中にいる人々を励ますために、再びエルサレムに戻っていったのです。ろうそくの火が、別のろうそくに火を与えるように、暗く冷たさに苦しむ人の心に光を与え暖める燃える心を、イエス様は御言葉を信じる人を通してあたえて下さるのです。
2024年4月14日
聖書における神殿は、罪の赦し、救い、清め、日々の感謝を神さまに祈り献げるための礼拝所であり、神さまを求める人が信仰を通して神さまと出会う場所でもありました。古代社会における戦争では、敵国の大事にしている象徴的な建築物を破壊することが一般的でしたので、エルサレムにあった神殿も破壊され、再建されています。しかしイエス様は目に見える物質としての神殿はあくまで象徴に過ぎず、信仰の実態は神さまを信じる人の心にあり、信じて生きる人の存在そのものが神の神殿なのだと教えておられます(ヨハネ福音書2章19-21節など)。コリントの信徒への手紙第一6章19節では、信じる人の存在そのものが神の神殿であるのだから、汚らわしい罪に気付いているなら、悔い改めて清めていただき、神さまと人が出会うに相応しい場所を整えるように、人生を整える必要があると教えています。自分自身のためだけではありません。家族や友人たち、隣人たちもまた、神の神殿である、信じる人を通して神さまと出会い、救いへと導かれるのです。
2024年4月7日
イエス様の十二弟子は皆男性でしたが、復活されたイエス様に真っ先に出会ったのは女性たちでした。マリアという女性名はヘブライ語の「ミリアム(マリアム)」の変化形です。意味は諸説ありますが、「苦い海」「強い水」「希望の子」「美しいもの」といった意味があったと考えられているようです。ミリアム=マリアという名前で最も活躍した人物の一人が、出エジプト記に登場するモーセの姉の女預言者ミリアムです。彼女は、力強く苦難に耐え忍びつつ希望を抱く女性です。人気のある名前だったので、イエス様のお母さんもマリアで、イエス様の弟子となった女性たちにもマグダラのマリア、ベタニアのマリアなど、何人ものマリアさんがいました。マルコ福音書によれば、彼女らはイエス様の復活の出来事を受け容れられず恐怖します。しかし、他の福音書では彼女たちがイエス様の復活を先ず伝えた人々として描かれます。マリアたちの働きを通して、信仰の強さとは生来の性格的強さではなく、疑いや苦難の只中でも、自分の信じることを信じ語り続けることが出来る、弱さを乗り越える力なのだと教えられているのかも知れません。
2024年3月31日
イエス様の復活を記念する復活祭(イースター)では、新しい命の象徴として卵がよく使われます。固い殻を破って生まれるひよこは、死を打ち破りよみがえられたイエスさまと重ね合わせられるのでしょうか。しかし、現在の食用卵の多くは、無精卵であってひよこは生まれません。現代人にとっての卵は、栄養豊かで、日々の命が神さまから与えられることの象徴として美味しく食べることに意味が見いだされるかも知れません。生きるためには何かを食べないではいられません。イエス様はガリラヤ湖周辺の文化で生活しておられ、またパレスチナ地方は西側が地中海に面していることから、よく魚を食べていたのでしょう。復活されたあと、生きていることの象徴的行為として、その場にいた人々と同じ食べ物である焼き魚を召し上がりました。食事という仲良く命を分け合う隣人愛の場に、生きておられるイエス様は共におられるのです。