「ベタニア」という村は、エルサレムの近くにあった村だと考えられています。イエス様と弟子たちはエルサレムに用事があって北のガリラヤ地方から来るときは、ベタニア村のラザロの家を拠点の一つとしていたようです。「ベタニア」という村の名前の由来については色々な解釈があるようです。しかし古い時代のキリスト教会ではベタニアは「苦悩の家」あるいは「貧しい者の家」とも呼ばれていたようです。また、マタイ福音書26章6-7節では、新約聖書の時代、社会から隔離されたハンセン病患者であったシモンという人物が、ベタニア村にいたという記述があります。そこでベタニア村は「救貧院」のような大規模な福祉施設の場所だったと考える人もいるようです。ヨハネによる福音書12章1-8節の出来事で、貧しい人々という言葉が出てくるのも、ベタニア村が貧しい人々を助ける働きをする場所だったからなのかも知れません。ナルドの香油という高価なものを、どのようにしてベタニア村の女性が手に入れたのかは記されていません。しかし、もしかすると貧しい者はただ憐れまれ施されるばかりだけではなく、イエス様と共に隣人を愛し、誰かに与える幸いな人生へと招かれているという、神の恵みの象徴的出来事だったのかも知れません。
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2024年7月28日
夏の日差しは、紫外線量が多く、長時間浴びると日焼けしてしまいます。日焼けは、皮膚ガンにもなり得るので、紫外線対策のクリームを塗ることが勧められています。しかし、全く紫外線を浴びないと体内でカルシウム吸収を助けるビタミンDを生成することが出来ず、骨がもろくなってしまうとも言われています。冬は極端に日照時間が短くなる北海道では、夏は15分程度、日光浴をしましょう、と勧められることもあるようです。古代社会では現代医学における紫外線の必要性は知られていませんでしたが、太陽の光が人間にとって有益であることについては、経験的に知っていました。旧約聖書のマラキ書4章2節では、太陽が義と癒やしの象徴とされています。新約聖書のヨハネの手紙第一1章7節では、光の中を歩む人は罪から清められる、とされています。罪から清められるということは、人として身体だけではなく、心や魂を含めた全人格が健全な、神さまの御心に適う状態へと回復されるという意味です。適度に日光を浴びつつ、神さまの愛と正義の光をたっぷりと浴びて、健やかな人生を歩んでまいりましょう。
2024年7月21日
詩編23編は、短くも美しい詩の一つです。作者ダビデは、旧約聖書のサムエル記の時代、イスラエル王国を再統一した英雄王です。ダビデは、羊飼いの末息子として生まれ育ち、さまざまな困難を乗り越えて成長し、素晴らしい活躍をしました。ダビデの人生における苦悩は、人間関係でした。ダビデ自身はカリスマ性もあり、大変魅力的な人物でしたが、上司となるサウル王に妬まれて命を狙われ、妻ミカルと親友ヨナタンから遠く離れることとなります。敵国であったペリシテの国の客員将軍となり、裏切りを警戒されながら過ごします。イスラエル王となった後は、子ども達が憎み、争う姿を見なければなりませんでした。また息子アブサロムに国を奪われ、奪い返す戦いの中で息子の命を失うことにもなります。羊飼いのころの経験によって、神さまを羊飼い、自らを一匹の羊になぞらえる23編の詩は、ダビデがまだ若く、未来に希望を抱いた時に作ったものかも知れません。しかし、苦難の中で自らの詩によって、いついかなる時も人生を導いて下さる神さまへの信頼を思い起こし、勇気付けられていたのではないでしょうか。神さまは苦難や罪深さや弱さ、人生の欠けたるあらゆるところを満たして下さる、恵み深き方です。
2024年7月14日
暑い夏の日には、相応しい服装があります。もし真冬の服装をしていたら、健康を損なってしまうでしょう。イエス様を信じて生きる、キリスト者となった人は、人生の新しい季節を迎えます。季節ごとに相応しい服装に着替えるように、キリスト者になった人は、以前の人生から相応しい人生へと変えられていきます。親が幼子のために季節ごとの服装を用意してくれるように、神さまはキリスト者となった人々に相応しい生き方を、「神にかたどって造られた新しい人」すなわちイエス様の十字架の人生と教えを通して備えておられます。17節では「異邦人」という言葉がありますが、これは外国人という意味ではなく、おそらくキリスト者ではない人々、という意味でしょう。この手紙の送り先である教会のあるエフェソ市は、道徳的腐敗が町全体の常識となっていたとも考えられています。しかし、世の中の多くの人たちがしていることだからといって同じ事をするのではなく、キリスト者は神さまに備えられている、清められた新しい人生を歩むことがキリスト者らしい生き方なのだと言われているようです。神さまは、伝統がなくても、新しく清潔で、健全な人生へと招いて下さる方です。
2024年7月7日
出かけようと思ったら、鍵がない、財布がない、と必要なものが焦ってしまったことはあるでしょうか。大事なものが見つからない時には、家の中で散らかっている場所を片付けていくと、見つかる場合があります。イエス様は、一人の罪人が悔い改める時、天使たちは大事な探し物が見つかった時のように喜ぶのだと言っておられます。この場合の天使たち、という表現は、天国全体とか、もちろん天使たちの主である神さまも含まれる表現です。天使たちの中には、すでに天国に召されている人々、という意味もあるかも知れません。一人の人間、しかも罪人という存在は、世界全体からすればほんの小さなものに過ぎませんが、神さまと神さまを信じ仕える存在にとっては、一人一人がとても大事で、見つけようと家中を片付ける手間をかけるに価値のある存在なのです。罪を悔い改めるということは、一人一人が自分自身の決断として行うことです。しかし、荷物に覆われたり、家具の隙間に落ちて闇の中にある銀貨が、探し出そうとする人によって光の中に見いだされるように、神さまの側から人の心と人生に救いの光が当てられる時、人は自ら気がついていなかった心の中にある罪に気付き、悔い改めへと導かれます。神さまは日々、人を悔い改めへと導き、天使たちと共に喜んで天国へと招いて下さる方です。
2024年6月23日
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉がありますが、人間は健やかな体でも不健全な心の状態になることもあります。本来この言葉は「健やかな身体に健やかな魂が願われるべきである」という表現であり、人間の実態はそうではないことを認め、理想として外側だけではなく、内側の健やかさをも願い求めるべきではないか、という問いかけなのだそうです。イエス様もまた、身体的な健康と心の健康状態については区別するべきだと教えておられるようです。イエス様はマタイによる福音書15章18節で人の心を不健康にするのはその人自身の心であること、そして具体的に心の健康・衛生状態が悪化する理由としては悪口など、心から出てくる言葉の問題を指摘しておられます。怒りや悪意が心に起こること自体を止めることは出来ないかも知れません。しかし、隣人愛によって忍耐し、言葉として相手を傷つけないように配慮するとき、その人の心は、健康な胃腸が食べ物を正しく消化するように、自分の思いを消化して清潔さと健康を保っているのかも知れません。胃腸の弱るように心弱る時にお薬を飲むように、心汚す思いの消化を助けてくださるイエス様のお言葉をいただきましょう。
2024年6月16日
イエス様はルカによる福音書15章11-32節で、父の財産を受け取って、それを全て浪費した果てに父の家に帰ってきた息子と、その息子を愛情深く受け入れる父親のたとえ話を通して、神さまの愛を教えておられます。たとえ話の父親は、家を離れた息子の人生が上手くいかないことを予感していたかも知れません。しかし、無理に引き留めませんでした。失敗するかも知れないと分かってはいても、子どもの自由な意思を尊重したのでしょう。父親にとっては自分が受け継ぎ、増やしてきたであろう財産は、彼自身の人生の証だったかも知れません。それが空しく費やされるのだとしても、この父親は息子に財産を渡しました。そして実際全て失った息子が自らを悔いて戻ってきたときに、父親は無条件で愛を示し、受け入れました。神さまは人が過ちうることさえ赦し、自らの弱さや愚かさに気づき、自由な意思で悔い改めて、心清められる機会を与える愛を示して下さる方です。
2024年6月9日
新約聖書の四つの福音書の中で、マルコによる福音書は最も短い書となっています。特徴の一つとして「すぐに」という表現が多用されています。読み手には、いつかという未来のことではなく、今すぐに救いの出来事が起こり、イエス様を信じる信仰へと招かれているという現在性が強調されているようです。物語の始まりとなる1章15節では、イエス様の一番始めの発言として「時が満ちた」という表現が紹介されています。この表現も、「今すぐに」というマルコ福音書の特徴が現れた表現です。「時が満ちた」という表現は、準備が完了した時に用いる表現です。イエス様がこの言葉を用いられたのは、イエス様の先輩に当たるバプテスマのヨハネが権力者によって捕らえられたという迫害の出来事の後でした。しかし迫害を恐れて、時期が悪いと考えるのではなく、むしろ悲惨な世の中である今こそ、イエス様の救いの出来事が起きるに相応しい、と語るマルコ福音書の始まりは、困難な状況の中にいる人々に対して、どんな状況の中でも、今すぐに救いをもたらし、神の愛に招いて下さるイエス様がおられることを力強く伝え、励ましているようです。
2024年6月2日
コリントの信徒への手紙第一13章では、イエス様を信じる人にとって最も重要で、欠かせない心の有り様は、信仰と希望と愛の3つであり、特にその中では愛が最も重要であると教えています。この愛はギリシア語では「アガ-ペー」という単語で、性愛や友愛とは異なる愛として区別されています。新約聖書では神様が人間に向ける愛を「アガペー」と表現しますが、親が幼子に見返りを求めず与える愛になぞらえられることもあります。人間はお互い様の精神で、助け合うことが大事です。しかし、お互い様の精神は、相手から何らかの見返りが有ることを前提とした愛です。すでに人間は神様から見返りを求めない十字架の愛を受けており、十字架の愛を知っている人は、自らもその愛を隣人に示そうとすることが出来ると、聖書は教えています。キリスト者の集うキリスト教会は、このアガペーの愛を知った人々が互いに愛を示し、まだ知らない人々を招く場所として整えられ、成長していくのです。
2024年5月19日
新約聖書の時代、信仰熱心な人は週に2回以上断食していたようです(ルカ18:12)。この場合の断食とは祈りの一種であって、健康のために行うダイエットとは違います。信仰熱心な人たちにとって、たびたび断食をするということは、信仰熱心さの象徴であり、賞賛に値する行為とみなされていたようです。しかしイエス様は誰かの賞賛を得るために祈ったり、善行を積むのではなく、人が見ていても見ていなくても、賞賛されてもされなくても、どんなときでも祈り、善行を積む人が、神さまを信じて生きる人だと教えておられます。自分が祈る時や善行を積んでいることを誰かに見せびらかして褒めてもらおうとせず、日頃と変わらぬ生活をして、むしろ人に知られないくらいが良いということを、「顔を洗い、頭に油をつける」という日常の身だしなみの表現を用いて教えておられます。誰かと、あるいは何かと比べるのではなく、自分自身の人生の中で出来る祈りと行いを、神さまにお献げしましょう。